【30歩目】場づくりに関する3つの誤解

こんにちは、認定NPO法人アカツキの永田です。

2015年から続くブログ『ひとりでできぬもん!』、NPOのファンドレイジングやコミュニケーションについて、その時気になっているテーマを取り上げていきます。

さて、アカツキはワークショッパーではありませんし、僕自身あまりワークショップは好きではないのですが、話し合いの延長として時と場合により採用することもあります。
パッケージ化された技術はわかりやすく再現性が高い反面、使い所が限定される難しさがあります。


今回はその中でも、誤用されているのではないかと僕が思う3つのことについて書いてみます。

1)ワールドカフェは対話の促進にはならない
2)グラレコは議論の可視化ではない
3)ファシリテーションは仲良しの技術ではない

 

1)ワールドカフェは対話の促進にはならない

ワールドカフェは、短い時間で多くの人が自分の意見を話すことができ、また出会いも生まれる洗練された手法です。

小グループに分かれることで、進行役の目が届かない代わりに、グランドルールと呼ばれる約束をつくることもあります。例えば、ポジティブな話だけする、相手の意見を否定しないなどです。ただ、これはあくまでも「楽しくお喋り(会話)をする」ための技術であると僕は捉えています。

対話とは「お互いの価値観や持っている意味を交換し合い、時に感情も共有しぶつけ合うことで、終わった後に意識や行動の変化を持ち帰ること」という定義をするならば、ワールドカフェをそこに当てはめるのは非常に難しい。

ワールドカフェのような短い時間では、各個人が自分の意見を「発表」することで殆どが過ぎていきます。仮に時間があったとして、ポジティブ縛りがある場合は、本音は言えず、現状強い立場の、声の大きい人の意見が尊重され、それが覆される可能性は低いです。

尊大な人は自己認識を強め、謙虚な側だけが心のうちで他者への理解を深める、つまり、新しい変化ではなく、保守的に現状の再強化をしてしまうことになります。

もちろん、おしゃべりに意味がない訳ではないと思います。初対面であればお互いの人柄を知ることができますし、異なる立場の人と接しやすい機会になり、アイスブレイクやブレインストーミングと組み合わせたアイデア出しにも向いています。

企業や行政はもちろん、今はNPOや学校でも、自分の意見を尋ねられることはとても少なくなってしまっています。そのため、ワールドカフェは参加者のモチベーションが上がりやすく、また批判もされにくい構造になっています。

だからこそ、まちづくり界隈においては「多数派にとって満足度が高く」「臭いものに蓋をしつつ」「住民の意見を聞いたことにする」ために使われやすい、発注者である行政がお金を出しやすい技術になってしまうのでしょう。日本的なムラ社会の論理と相性が良い進化を遂げしまっているのかもしれません。

2)グラレコは議論の可視化ではない

「グラフィック・レコーディング(以下グラレコ)」は、私見では10年ほど前からイベントなどで見られるようになり、最近ではインスタやFBのような「映え」が重視される風潮もあり、急速に広まっているように思います。

但し、「ファシリテーション・グラフィック(以下ファシグラ)」とは、目的もプロセスも全く異なる技術であることを念頭において使う必要があります。

まず、グラレコは「記録」しかも文字ではなく情報が凝縮された端的で、見やすい、楽しい雰囲気の記録であり、イベント終了後の広報やPRに向いています。話し合いが終わった後に活用されると理解するとわかりやすいでしょう。
一方、ファシグラは「進行」あくまでも話し合いの促進・整理の一環として行われ、見やすさよりも言葉の拾い方が重要であり、話し合いの最中にその威力を発揮します。

これはグラレコとファシグラ両方に通じることですが、ホワイトボードや模造紙、紙に書く言葉や出来事を「取捨選択」する必要があります。

但し、この選ぶ主体の強度は違います。グラレコは完全にグラフィッカーの主観により、恣意的または無意識に選択がなされます。ファシグラは記録係ではなく進行役のため、その都度参加者に言葉の意味や意図を聞き、確認し、メモしていきます。

そうすると当然、グラレコからは参加者のうまく言葉にならない想いはこぼれ落ち、批判的な意見やネガティヴな声は排除されやすくなります。テキストの書き起こしによる議事録とも異なり、議論のプロセスを読み取ることもできません。そのため、あくまでも「アウトプットの一部」であることを伝えた上で、発信する用途に留めるべきだと思います。

3)ファシリテーションは仲良しの技術ではない

これは、僕が市民活動の大先輩から教えてもらった言葉です。

ファシリテーションは、話し合いを「まとめる」ものだと教わる人も少なくないでしょう。もちろん、それが間違いではありませんが、問題は「まとめ方(まとまり方)」です。

様々な人の意見が異なることを前提にした民主主義的な話し合いでは、当然、議論があちらこちらに揺れ動きます。それは、とても面倒で時間がかかるものです。

しかし、日本では歴史の中で、例えば家父長制のように「誰が決定するのか」が、先に決まっていた時代がとても長く、また学校でも、皆と同じことが良いこと・皆と合わせることが協調性・異なる意見を発することは迷惑 というような意識が刷り込まれていると僕は感じています。

そのような前提のまま、ファシリテーションが話し合いを「まとめる」技術だと表層的に理解してしまうと、スムーズに進行し、時間通りに、きれいに整った、予定通りの結果を出すために、秩序を乱さない・異論を認めない という使い方もできてしまいます。

そのような、全体をコントロールし、ファシリテーターの思惑通りに動かすためのファシリテーションを、僕は「ファシズム・ファシリテーション」と呼んでいます(因みに、ファシズムの語源は「束ねる/結束する」、ファシリテーションの語源は「成す/容易にする」という、それぞれラテン語からきているそうです)。

では、どうすれば良いのか?ここで最初に書いた大先輩の言葉が続きます。「ファシリテーションとは対立を顕在化させる技術である」

AさんとBさんの意見は、例え一見似ていても異なっている。それを質問や整理していく中で、「一緒だね」ではなく「ここが違うんだ」と明確化していくことで、お互いの譲れる・譲れない点を探り、妥協点を見出していく技術だということです。

こう定義づけると、上の1と2の話もしっくりくるのではないでしょうか。

如何でしたでしょうか。今回は(今回も?)敢えてちょっと振り切った、ざわざわしそうな書き方をしてみました。

「場づくり」という言葉をタイトルに使いましたが、場は手段であり、前提であり、そこにいる人が大切にされることが目的。そこに居る人・そこに居られなかったに対して、「このくらいでいいか」という扱いをしないこと。

そのために、アカツキの持つ技術や知識といった力を使っていきたい、責任があるのだと、思っています。

*本ブログ記事の写真は、2018年以前のものを使用しています。